自分をご機嫌にするヒント

人生にはデコボコがつきもの。自分をご機嫌にする方法を見つけて、楽しく生きるヒントをご紹介。

『環境や誰と出会うか』で人生は激変する

幼少期における環境や関わる大人の存在は、その後の人生に大きく影響してきます。祖父と暮らした期間がなければ、今の私はなかったと断言できます。それくらい、祖父の存在は大きかったですね。

 

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協調性ゼロだった幼稚園時代

 

幼いころから協調性というものが欠けていた私。社会的な視点で見れば自己中心でわがままな性格といえます。ただ私自身は「自分の感情に正直に」生きていたつもりでした。子どもだからよけい、周囲の思惑など関係なかったのです。

 

他の子と一緒になにかをする。まず共同生活においてこれができないと、とても困ったことになります。幼稚園では見事な暴れっぷりだったようです。幼稚園は保育所と違って、教育目的で預けられる場所。そのため小学校と同様に時間割りのようなものが定められています。

 

私は「おゆうぎの時間」というのが大嫌いでした。「おゆうぎ」自体が嫌だったわけではありません。好きでもない曲をかけられて、みんなと同じ振付で踊らされることが苦痛でした。どうせ踊るなら、お気に入りの曲で自由に楽しく踊りたいわけです。

 

で、どうしたかというと! 家が近かったこともあり、脱走して自分の好きなレコード(当時はレコードでした)を持ってきて、許可もなくかけて踊ってました。しかも「おゆうぎの時間」でもないのに(笑)

 

またあるときは、お昼寝をしたいと駄々をこね、みんなが帰ったあとも帰らず、勝手に寝る。みたいなことを繰り返していたようです。今思えば「なんて子だ!」と自分でも叫びたくなります。穴があったら入りたい。

 

さぞかし幼稚園の先生たちには、ご迷惑をおかけしたことでしょう。にも関わらず、園長先生が奇特な方で「好きなようにさせてあげましょう」と叱ることなく、私の気持ちを優先させてくれたのです。感謝しかありません。

 

そんな自分がよもや、幼稚園教諭になるなんて、このときは夢にも思いませんでしたけど。のちに幼稚園教諭の職についたときは、母から念を押されました。「さんざん子ども時代に迷惑をかけたんだから、これはご恩返しのチャンス。どんなことがあっても子どもを怒ったり見放してはダメ」と。

 

 

病弱だった時代

 

幼稚園時代だけを見ると、やりたい放題な子どもに見えますが、もとから自由奔放だったわけではありません。私が自分に正直に生きるようになったのは、祖父との生活が大きく影響しています。

 

0歳のころは体も弱く、二度ほど心停止したこともあるくらいでした。虚弱体質というんですか? これといった病名がついたわけでなく、免疫力や体力がなかったんですね。したがって「風邪」をひいだだけで呼吸困難に陥ってしまいます。

 

医師からも「もしかしたら20歳まで生きられないかも」と宣告されていたそうです。アレルギーもひどく、顔は腫れあがり黄疸も常に出ていたといいます。両親はある程度、覚悟していたようです。

 

若くして親となった父と母は、経済的にも困窮していました。病弱な私につきっきりでいるわけにもいかず、頭を悩ませていたそうです。考えあぐねた両親は、父方の祖父母の家に私を預けることに!

 

当時、私たちが居住していた場所は、空気が汚染されており、子供にとって良い環境とはいえませんでした。自然豊かな田舎生活をさせた方が健康にもいいだろう、そんな配慮もあってのことだったと思います。そこで私と祖父の、運命の出会いが待っていたのでした。

 

生きていく術は祖父から教わった

 

両親は病弱な私を腫れものに扱うようにしていました。風邪をひかないように冬は厚着をさせ、菌に感染しないよう外へも連れて行かない。最新の注意を払っていたようです。

 

ところが祖父は全く逆でした。昔ながらの頑固おやじ気質。「てやんでぇ」の江戸っ子口調で、「子どもは風の子や。外で遊んで来い」と頓着しません。冬でも重ね着をさせることなく、長そでの肌着一枚で過ごしていました。夏は川で水遊び。家の中にいた記憶がないくらい。

 

祖父の口癖は「働かざる者は食うべからず」でした。これは子どもに対しても同様で、情け容赦ありません。果物が食べたいというと、山になっている柿やミカンを指さし、自分でとってこいとピシャリ。

 

木になっている果実は、子どもの身長では届きません。「手が届かん」と拗ねてみても、孫のぶりっこは通用しませんでした。「こうやったらえい」と木に登って獲ったかと思うと、祖父は自分で食べてしまいます。

 

「私にも獲ってや」と泣きじゃくる戦法に出ても、「方法は教えちゃったろう。自分で獲れ」という始末。スパルタ教育のおかげで、私は木登り名人になりました。近所の子どもたちに、羨望と憧れの視線を浴びるくらいに。

 

ほかにも魚の獲り方、ヘビの捕まえ方など、役に立つものから立たないものまで、様々な術を教わりましたね。預けられたころは「お嬢さま風」なお子ちゃまだったのに、両親の元に返される頃には、「野生の子」に変身しておりました。

 

どれくらいの変貌ぶりかというと! 

 

ビフォー

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アフター

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なんじゃこりゃあ!!
ってくらい変化して、何だか悪ガキと化しておりまする。しかもパンツ丸出し。悪ガキを通り越して、山猿って感じでしょ。人間、環境でこれくらい変わるんですよ。コワイですね。衝撃的ともいうべき、ビフォーアフターでございます(笑)

※昭和40年代ですから写真はモノクロ。
カメラを所有しているだけでも、結構すごいと言われてた時代。

 

おまけ

祖父とのエピソードはたくさんあるのですが、祖母との想い出は意外と少ない。祖母は矍鑠として、怖い印象しかありませんでした。それでも、唯一心に残っているエピソードがあります。それは・・・・!

 

病弱だった孫に、なんとか栄養をつけさせようと、祖母は毎日、生卵を飲ませました。当時、卵は高級品で滋養強壮にとても良い、とされていましたから。貧乏でお金がない中、私のため毎日卵を買ってくれてました。

 

そんなある日、私の肌が何だか黄色くなってきたのです。

私:「おばあちゃん。手が黄色うなってきたで」

祖母:「あんた、みかんばっかり食べゆうきよね。ほんで黄色うなったがよ」

私:「ふうん」

 

ところが、2日後にダウンし、病院で診察を受けた結果、卵の摂取しすぎで、黄疸になっていたことが判明。先生:「子供に生卵はいかんぜよ。肝臓やられるところやったぞ」祖母がよかれと思ってしてくれたことは、逆効果でした。それでも祖母は、「生卵やなかったらえいがやねぇ」と、めげる様子はなかったそうな。

※会話は土佐弁です(高知の方言)