いきなり否定からスタートした人生
人生楽ありゃ苦もあるさ。水戸黄門様ではないですけど、生きていれば色々あります。波乱万丈でなくても、小さなデコボコは誰にでも起こることです。私はおぎゃあと生まれた瞬間から躓きました。もちろん記憶はないので、のちに親から聞いた話ですけれど。
人生初の否定は父親から
自己肯定が大切だと、昨今では声高に叫ばれています。自分を認める、自分を好きになる。生きるために大事なことはまず、自分を満たすことです。これに関しては異論ありません。そもそも否定されて嬉しい人はいないでしょう。
私が一番最初に否定という落款を押されたのは父親からでした。それも「おぎゃあ」と生まれた瞬間にです。これには理由がありまして。母親から聴いた話しをもとに、記憶の糸をたぐりつつ、忠実に再現してみます。※昔話の語り口調で
生誕
おぎゃあ、と産声をあげるまでに、かなりの時間を要した母のお産。うんうん、玉のような汗を浮かべ、いきみまくるも、全く出てくる気配なし。今でも道草好きな私は、どうやら産まれる前から道草を食っていたようです。そのうち、母の体力も限界に近づいた上、出血が多量に溢れ出し、母子ともに危険な状態に。
当時はまだ、帝王切開は極力避けられていましたので、何とか自然分娩を。医師たちはそう願っていたようですが、如何せん、時間が経ち過ぎていたようです。「仕方ない吸引だ」と、言ったか言わなかったかは知りませんが、とにかく吸引して取り出す作戦に打って出たのでした。
ところが、その作戦もむなしく失敗に終わり、母は、もはや失神状態かつ虫の息。「秘密兵器だな」遂に最終兵器の登場と相成りました。カニのハサミのような機械で、頭部を挟み込み、強引に引きずり出す。と、いった戦法です。
これはさすがに功を奏し、「おぎゃあ」めでたく第一子誕生とあいなりました。看護婦さん(当時は看護師ではなく看護婦さんでした)が、赤ん坊の私を産着に包み、期待に胸膨らませ、廊下で待っていたであろう父にお披露目。ところが、父は赤ん坊の私を一目見るなり!「なんじゃこりゃあ。宇宙人じゃないか。こんなもんいらん!」と、叫んだそうな。
といった感じで、「おぎゃあ」と産声をあげた瞬間から、私は父親に否定をされましたわけです。
親の言葉は記憶じゃなくて心に残る
もちろん当時のことを生まれて間もない私が知るはずもなく、記憶だって残っていません。しかしながら心の傷として刻まれているのをときどき感じます。父親に祝福されなかった子ども。そんなトラウマがずっと付きまとうのですね。
実は、父親から否定されたのはこれだけではありません。父は男の子を欲しがっていました。ですから生まれてきた子が「女」だとわかってガッカリしたんですね。その後もずっと「男がよかった、女はいらん」そう言われ続けてきました。
おそらく父にとっては、軽い愚痴程度のことだったでしょう。けれど、言われる側にとっては、大きな傷となるのです。「私はいらない子、望まれない子」呪いのように否定が重しとなってのしかかります。言霊っていうくらいですから、言葉にはそれだけの力があるということです。
発する側と受け取る側では、かなりの誤差が生じます。このことを念頭において言葉を発信していかなくてはいけませんね。
その後、私は両親のもとを離れ祖父母と暮らすことになりますが、今回はここまでにします。